優しさで流れる川~『寝ても覚めても』~

 濱口竜介監督の商業映画デビュー作となる『寝ても覚めても』をテアトル新宿での上映終了前日に観ることができた。前々から評判が良いことは知っていたんだけれど、このところ映画館に足を運ぶことへの面倒臭さが上回ってしまってなかなか行けなかった。そんなことはともかく、観終わってから、これは何かしら言葉にして残しとかないといけないなと思った。こんなにも人間について誠実で優しい映画は他にはないと思ったからだ。観終わってからというもの、頭がぼっとしてしまって呆然としてぼんやりと一日中『寝ても覚めても』について考えてしまった。

 なんというか、僕たちは映画に対して倫理観を要求する。自分たちの生活における生々しい残酷な気持ちというものを映画に対しては要求しない。それは描写や主題云々ということではなくて、僕たちの持つ残酷さについて見つめさせ、あるいは慰めさせ、最終的には自分を肯定してくれる理解者として多かれ少なかれ作品をいちづけようとするという意味においてだ。だから作品に対する評価というのもそこで分かれてくる。無論、本作も例外ではないと思う。ただ、本作は本当に風通しが良いのだ。自己投影としての普遍的な問題や社会問題について問題提起を促したり、見えるものについて徹底的にこだわり貫いてフレームの美的な視覚的強度で酔いしれさせたりすることは良いことだ。だけどそれは表面的な偽善だとも思う。全然優しくない。見えるものの美しさで作品を評価するのはテクニカルで分かりやすいし、なによりも気持ちが良い。でも、それより先へは行かれない。何よりもそれでは作品内での道徳的な要素というものが置いてけぼりになってしまう。登場人物の勇敢な行動、はっとする行動、没入できたか、泣けたか、主人公の心情に寄り添えたか、それで評価すると、これもまた単調だ。理解できない人間は切り捨てられてしまうのか。『寝ても覚めても』は偽善から離れて優しさで包もうとする。漠然とした表現だがそのように思う。ショットの凄さで論じる一辺倒になるのはそろそろよしませんか?あるいは、あなたがかわいそうだと同情することで傷つくことになる存在がいることについて気づいてくれませんか?とでも言うようだ。だからといって少しも押しつけがましくない。

 ショットはうっとりするほど美しい。チェーホフの戯曲の一節を唱えながら歩みだす串橋(瀬戸康史)とそれを見つめる朝子(唐田えりか)。常磐道を走って北海道へと向かう朝子を乗せた麦(東出昌大)の運転する車のヘッドライトの光が東京へと帰っていく車のヘッドライトの光と交差して、そして遠くへと消えていく。高速バスの窓の外を眺める朝子の横顔が夜の外灯の光で映っては消え、また映っては消える。東北の復興市でテーブルを囲んでおしゃべりにふける朝子と亮平(東出昌大)と地元の人々をカットを割らずに次々映し出すのはジョン・カサヴェテスの『こわれゆく女』を彷彿とさせるし、河川敷を走って逃げていく亮平を追いかけていく朝子を遠く離れた高い位置から定点で撮り、一面緑の草が生い茂る河川敷の中で見る見るうちに白い点でしかなくなってしまう亮平と朝子の長回しは、やはりアッバス・キアロスタミの『オリーブの林をぬけて』のような清らかさがある。ただ、何度も言うようにショットの美しさを語るだけでは到底作品のすばらしさを表現できない、皮相的になってしまうのだ。

 朝子(唐田えりか)の行動は理解できないものなのか。たしかに嫌われて軽蔑されてとことん信用されることはないのかもしれない。顔が同一の亮平と麦(ともに東出昌大)。亮平とともに生きていこうと決めた大阪への引っ越し前夜、突如現れた麦から差し出された手を躊躇うことなく朝子の方から手に取りその場を去る。そして結局はもうそれ以上先へは行くことができない防波堤の前で麦の手から離れて海を見つめて亮平の元へと戻る。「お前は馬鹿だな」と東北のおじさん(仲本工事)は言いたいことを代弁する。「愛に逆らえない」、というより、自分の誠意と他者との共存は両立しえないものなのではないか。朝子は麦に対して誠実であった。誠実ゆえに麦の手を握るしかなかった。あなたが今、目の前にいる。一緒に行こうと言っている。それは嬉しいことで、私はあなたのことが好きだ。約束を守ってくれてありがとう。あなたは私にとって心から大切な愛しい人だ。そう感じるとき、私とあなたの世界でどうして自分の気持ちに蓋をするのだ。だって私はあなたのことが好きなのだ。それを伝えることは誠意のこもったことではないか。頭がおかしいんじゃねえのか。私の目の前にいるこの人はどうなるんだ。もしあなたを選んでしまったらこの人が深く傷つくことなんて考えなくたってわかるし、いや、というかそもそもあなたを選ぶという選択肢がここで浮かぶなんてお前は瞬間的な感情に身を任せる軽率で悪い人間だ。この人に対して愛があるのなら、誠意があるのならば、当然あなたを選ぶことなんてできない。違う。私はこの人が大好きだ。ずっと一緒にいたい。だけれど、だけれど、鼻っから、誠意なんてものは複数の他者に対して同時に両立することなんてできないんだよ。無理だよ。あっちみてこっちみていっぺんにキョロキョロして丸め込もうとすることは誠意じゃない、偽善だよ。誠意をもって向き合うことは目の前の一点においてしかできない。きっとそういうことなのだ。

 麦から離れ大阪までやってきた朝子のことを最後まで亮平は決して見ようとしない。目を合わせることはない。朝子は亮平の顔を見つめ続ける。2人が出会ったとき、朝子は亮平を決して見ようとせず、亮平は朝子を見続けた。他者を見ることは誠意を持つことだ。その誠意が必ずしも優しさ、相手を傷つけることがないような配慮ではないかもしれない。3.11以後の世界で、高い防波堤の前で海を見ることもできず更に奥へと走っていった麦。麦が去った海を見つめる朝子。大阪の新居の二階のベランダから、傍の淀川を見つめる朝子。亮平も淀川を見つめる。誠意は物事を逆再生できないところまでぶち壊してもとには戻らないかもしれないし、物事をよりややこしくしてしまうかもしれない。それでも、この映画はそんな奇形とも思える誠意すら静かに川の流れる音とともに受け止める。いずれ死にゆく不治の病ALSに罹ってしまった岡崎(渡辺大知)のありようも、それを支える母(田中美佐子)も、串橋と生きていく夢破れたマヤ(山下リオ)も、整形して国際結婚した春代(伊藤沙莉)も皆、流れていく人生を予感させ受け止める。優しさ、風通しの良さというのは、それぞれの人生を肯定するのでも咎めるのでもなく、ただ川の流れを見つめて、人生がこれからも続いていく、彼らの簡単ではないこの先の時間の流れが明転してもなお思いめぐらされ、そこに困難は予感されても心配することがなく終わるからである。それを僕は優しさという言葉で拙いけれど表現しようとした。