『素粒子』の映画化の難しさ

フランスの小説家ミシェル・ウェルベックの『素粒子』(Michel Houellebecq, Les Particules élémentaires)は1998年にフランスで刊行され、世界30ヶ国で翻訳されている彼の代表作品である。2006年には、ドイツの映画監督、オスカー・レーラーによって『素粒子』(原題:Elementarteilchen)は映画化されている。本論では原作における『素粒子』の特徴を分析し、レーラーによる映画版の原作からの変更点とそれによる効果を分析したものである。

 

原作について

 原作『素粒子』はプロローグとエピローグで両端を挟んだ中身が、ミシェルとブリュノという男2人の母親が共通である異兄弟の人生の物語という構成をしている。弟のミシェルは愛もセックスもなく孤独に遺伝子研究に専念してきた科学者であり、一方の兄ブリュノは異常とも言えるほど性的欲望に憑りつかれ、妻子に見放され、それでもなお女を追い求めている国語の教員である。2人の母親は自己の欲望を追求しヒッピーになり、ミシェルとブリュノは翻弄されながら中年となった。中身の物語は単に2人を三人称で叙述するだけではなく、彼らの母親、父親、祖父、祖母へと次々と数世代に渡ってどのような人生を送りその結果どのようにしてミシェルとブリュノが生まれるに至ったのかが語られる。そのような記述は記録文書あるいは論説文のように淡々とした印象を受ける論理的な文章で構成されている。また、本文の前半部の描写は観念的分析が中心を占めている。例えば、

実地に観察できる道徳とは、純粋道徳と、他のいささか出所の不確かな要素、多くの場合は宗教的な要素とが、さまざまな割合で混ざった結果なのである。その道徳のうち純粋道徳の占める割合が大きければ大きいほど、道徳の支えとなる社会は長く幸福を享受できる。究極的には、普遍道徳の原理のみが支配する社会ならば、世界の終わりまで存続するであろう。(48)

この部分のように語り手の独自の視点、価値観が随所に現れる。そうした叙述が多いため、次第にこの物語の語り手は<誰>で<何のため>に記述しているのかという疑問を生じさせていく。原作においてはまさにその点こそが肝要な要素であり、エピローグでそれが明かされるとき、物語内部に執拗に出てくる人間を対象化したような突き放した印象のあるニヒリズム的描写の理由が明らかになる。エピローグの最終文で「本書は人間に捧げられる。」(431)と締めくくられる。つまり、ノーベル賞クラスの分子生物学者であるミシェルの功績によって、人工生殖――セックスを必要としない生殖――が可能となり、人間は旧人類として消滅の道を歩んでいて、現在の人類は人工生殖によって生まれた新たな人類として繁殖していっているのだということが明かされるのである。

人間の観点から言えば、われわれは幸福に暮らしている。彼らには乗り越えることのできなかったエゴイズムや残酷さや怒りの支配をわれわれが脱することができたのは確かである。いずれにせよ、われわれは異なる人生を送っている。(中略)旧人類の目から見れば、われわれの世界は楽園である。われわれ自身、ときおり自分たちのことを――軽いユーモアを交えてではあるが――「神」という、旧人類たちがあれほど夢見た名前で呼んでみたりするものである。(430)

このように、人類全体と新人類の未来というSF的な展開をする叙事詩的なメタフィクションとして本作は成立している。またポストモダン文学に類するものとして本作を位置づけることも可能であろう。ソレルスサルトルなどの有名な実在した人物たちが物語で登場人物たちとかかわりを持って登場する点や、哲学や現代思想、戦後史、社会学、生物学、物理学などの様々な諸学問の概念を至る所で――説明的すぎる部分もあるし、マニアックな域までは一つ一つの概念を掘り下げてはいないが――導入している点、架空の歴史を扱っている点、語り手がこの書物そのものに言及する枠構造になっている点などがポストモダン文学の特徴と一致しているであろう。このように原作は、単に異兄弟の人生を描いているというよりは叙述トリックを用いて、ふんだんに知識が盛り込まれ、差別的な表現も厭わずに用いられた、アイロニカルな様々な要素を含んだ作品である。以上が原作の概括である。

 

レーラーによる映画版の原作からの変更点

 細部の設定についての変更点は以下の通りである。まず基本的な変更点としては舞台がフランスからドイツに移されたということである。これはドイツ映画ということで俳優がドイツ人中心であるということを考えればごく当たり前の改変である。また、ミシェルが冴えない女性経験の無い中年男性、ブリュノが筋肉質で色気ある男性に変えられている。原作ではミシェルは女性経験があり、ブリュノは髪の薄い風采の良くない中年男性である。少年期のミシェルは風采が良いがブリュノが良くない、という点は原作と共通している。そして大きな変更点は、ミシェルが再会して恋人となるアナベルが原作では癌が見つかり亡くなってしまうのに対して、映画版では病気から快復して生き続けるということである。また、ブリュノの恋人となるクリスチヤーヌは原作でも映画版でも亡くなってしまうが、原作では事故死、映画版では自殺に変更される。これらの登場人物の変更点が、原作のアイロニカルな現代批判的側面を消し、異兄弟それぞれのラブロマンスの物語へと大きく印象を変えている。映画版の最終シーンでは、ミシェル、アナベル、ブリュノ、そしてブリュノに幻覚として見えている、死んでしまったクリスチヤーヌの4人が浜辺に置かれたチェアーに並んで座っているシークエンスでエンディングを迎える。原作で用いられた旧人類を新人類が語るという叙述トリックの要素は完全に排される。ミシェルの人工生殖の功績も原作のような人類規模の変異につながることはなく、彼の重要性が強調されることはない。あくまでもミシェルとブリュノは同列に置かれ、職業は彼らの差異を示すために記号的に用いられるにとどまる。そしてエンディングでミシェルとブリュノそれぞれが愛を見つけささやかなカタルシスが与えられたところで物語は終わる。

アナベル役/フランカ・ポテンテ「これは家族の物語であり、人生の希望を描いた物語でもあるわ。成長し年をとる過程つまり人生を描いているの。」

プロデューサー/ベルント・アイヒンガ―「映画化で大変だったのは物語の核を決めることだった。物語の流れを考えたうえで兄弟を二人とも主役にすることに決めた。」

監督/オスカー・レーラー「映画全体をネガティブな印象で終わらせたくなかった。主人公の二人はひどい人生にもてあそばれてきたが、やっと自分たちの愛を見つけた。それなのにまた失うなんてね。」

インタビューで語っているように映画版は、原作の多層的なスペクタクルから、愛を失っている異兄弟が再び愛を獲得していく過程に焦点を絞って、2人の人生の物語になるように意図して作られていることがわかる。

 

愛の獲得と移動

映画の序盤、工事の関係で祖母の墓を移動するため、立ち合いの要請を受けたミシェルは故郷を訪れる。そこで偶然初恋相手のアナベルと再会する。ここでのミシェルは要請されて移動してきたので、受動的な行動といえる。一方ブリュノは、ヒッピー生活をする「変革の場」という施設へと自ら足を運ぶことでクリスチヤーヌと出会い愛を手に入れていく。依頼によって偶然出会ったミシェルに対して、ブリュノは自ら愛を求めて能動的に行動する。愛への受動性がミシェルの愛を獲得できない理由なのだとすれば、ブリュノは過剰な能動性である。それぞれに愛の獲得の機会が訪れ、彼らの行動に明らかな変化が見られるようになる。

ミシェルとアナベルは再会ののち恋愛関係になり肉体関係をもつ。ミシェルの子どもを授かりたいと願ったアナベルは子宮に癌があることが発覚する。術後容体の悪いアナベルを心配したミシェルは、更なる研究のためにアイルランドの研究所に移っていたのだが、アナベルの元へと急いで向かう。ここでの移動は象徴的である。受動性が問題であったミシェルは能動的にアナベルの元へと向かう。アナベルは結果として生き延びる。(原作ではミシェルはアナベルの元へやって来るが、アナベルは亡くなってしまう。)アナベルが病気から快復したことでミシェルとアナベルは再びともに生きることができるようになる。この出来事がきっかけでアナベルはミシェルとともにアイルランドに行くことになる。ミシェルの行動の変化が愛の獲得と結びつくのである。

クリスチヤーヌは尾骶骨の壊死が進行しており、手術によって車椅子生活を余儀なくされてしまう。「これからは一緒に暮らそう」と花束を渡すブリュノに対してクリスチヤーヌは「あなたの残りの人生、無理して身体障害者の世話をしなくていい。もう一度考えてそれでも良いのなら電話して。」と答える。自宅に戻ったブリュノとクリスチヤーヌの平行モンタージュが劇中で最大のサスペンスを生む。ここでは電話が記号としてクリスチヤーヌとブリュノの感情を表す。ブリュノは電話を掛けようとするがなかなか掛けることができない。これはこれまでの過剰な能動性とは異なり、クリスチヤーヌの事を思いやった上で葛藤している様子を表している。クリスチヤーヌの願いはブリュノに余生を自由に生きてほしいというものであると推し量ったブリュノはいままでのように能動的に自分の意志だけで行動することができない。ブリュノの葛藤が床に置かれた吸い殻の大量に溜まった灰皿のインサートで表される一方、クリスチヤーヌはマンションのベランダへと車椅子を動かしていく。クリスチヤーヌは自殺しようとしているのだ。ようやく電話を掛けることができたブリュノと身体を投げ出そうとするクリスチヤーヌのモンタージュ、そして次に電話を置いて走り出すブリュノと身を投げたクリスチヤーヌが連続で映される。ブリュノはクリスチヤーヌの命を救うことはできなかった。しかしながら、その後精神病院に入院するブリュノはクリスチヤーヌの幻覚を見ることになる。奇妙な形ではあるがブリュノはクリスチヤーヌとともに生きる喜びを手に入れ、クリスチヤーヌの願いも叶うことになるのである。そこから前述のように、カタルシスを与えてくれる浜辺の4人のシークエンスのエンディングに向かっていく。

 

映画版は原作の補填的イメージ表象に過ぎないのか

レーラーの映画版は原作のプロットに忠実であろうとし過ぎた。異兄弟の「愛」に焦点を絞って人間ドラマに再構成したが、核となるプロットにはあまり変更がほどこされていない。たしかにアナベルが死なないなどの大きな変更はあった。しかし、原作は2人の恋にとどまらない壮大なメタフィクションとして構想されたものであり、枠構造内部のプロットだけ取り出して人生ドラマに改変したレーラーの映画版は明らかに原作が持つ特異性を失ってしまった。『素粒子』の特異性とは、新人類の語り手によって壮大に描かれる人間存在と現代社会のニヒリズムと合理的確実性の極限までの追求によって人間のエゴイズムを超克したユートピアとが織りなして作られる架空の世界観である。繰り返しになるが、われわれの生きている世界を強烈にパロディとしておちょくっているメタフィクションなのである。そのような原作の要素を封印してヒューマンドラマに変換してしまった映画版に原作と同じように特異性を見出すことは到底できない。愛と人生に焦点を当てた結果、比較的平凡なメロドラマに収まってしまったとさえいえるかもしれない。原作の特異性に代わる特異性を形式に求めることはできるか。これもあまり期待できないだろう。なぜならメロドラマ的になってしまっているのは、形式的な斬新さもあまり見られないからだ。回想シーンは決まってブリュノの語りとともに導入されていくし、女子学生に発情してしまったが気持ちが通じ合わなかったブリュノはやはり泣くし、聡明そうな容貌の若き日のミシェル少年は期待通り科学の話を振られると饒舌に話し出す。意外性をもたらさずに観客の直観のイメージに頼ったカットのつなぎや話の展開は画一的な固有性の無いメロドラマ的イメージへと読者を誘ってしまう。メロドラマが必ずしも悪いわけではないが、原作の特異性を再構築しようとしたときに、このような変換ではむしろ特異性は鳴りを潜め、類型的になってしまったのではないか。

映画版では原作の持つSF的スペクタクルと激しい現代批評性は失われたというのは既に指摘した。その点では映画化によって独立した、原作を転覆させうるような作品ではないだろう。しかし、映画版は2人の人間の奇妙なラブロマンスへと変換することで全く異なる様相を強調することには成功した。焦点を変えることで全く異なるイメージの作品へと転換させた。視点の変更と言ってもよいかもしれない。原作の視点は人類という壮大な視点だが、映画は二人の人生そのものを映す視点である。これによって作品から受ける印象は原作と映画版とでは大きく異なる。焦点化したポイントが原作とは全く異なるため、単なる小説のイメージを補填するための再現表象という避けるべき事態に陥ってはいないであろう。しかしながら、この映画そのものが自立して自然に原作から離れていき人々の感覚を切り裂くような揚力を持つことは非常に困難であると言わざるを得ない。最後に原作から次の文を引用して本論を終えようと思う。

責めさいなまれ、矛盾を抱え、個人主義的でいさかいに明け暮れた種族、そのエゴイズムに限りはなく、ときにはとんでもない暴力を爆発させた彼らは、しかしながら善と愛を信じることを決してやめようとはしなかったのである。(431)

 

 

参考文献

http://www.webchikuma.jp/articles/-/868(2018/7/21アクセス)

ミシェル・ウェルベック野崎歓訳、『素粒子』、筑摩書房、2006年

オスカー・レーラー、『素粒子』、ジェネオン エンターテイメント、2007年