『素粒子』の映画化の難しさ

フランスの小説家ミシェル・ウェルベックの『素粒子』(Michel Houellebecq, Les Particules élémentaires)は1998年にフランスで刊行され、世界30ヶ国で翻訳されている彼の代表作品である。2006年には、ドイツの映画監督、オスカー・レーラーによって『素粒子』(原題:Elementarteilchen)は映画化されている。本論では原作における『素粒子』の特徴を分析し、レーラーによる映画版の原作からの変更点とそれによる効果を分析したものである。

 

原作について

 原作『素粒子』はプロローグとエピローグで両端を挟んだ中身が、ミシェルとブリュノという男2人の母親が共通である異兄弟の人生の物語という構成をしている。弟のミシェルは愛もセックスもなく孤独に遺伝子研究に専念してきた科学者であり、一方の兄ブリュノは異常とも言えるほど性的欲望に憑りつかれ、妻子に見放され、それでもなお女を追い求めている国語の教員である。2人の母親は自己の欲望を追求しヒッピーになり、ミシェルとブリュノは翻弄されながら中年となった。中身の物語は単に2人を三人称で叙述するだけではなく、彼らの母親、父親、祖父、祖母へと次々と数世代に渡ってどのような人生を送りその結果どのようにしてミシェルとブリュノが生まれるに至ったのかが語られる。そのような記述は記録文書あるいは論説文のように淡々とした印象を受ける論理的な文章で構成されている。また、本文の前半部の描写は観念的分析が中心を占めている。例えば、

実地に観察できる道徳とは、純粋道徳と、他のいささか出所の不確かな要素、多くの場合は宗教的な要素とが、さまざまな割合で混ざった結果なのである。その道徳のうち純粋道徳の占める割合が大きければ大きいほど、道徳の支えとなる社会は長く幸福を享受できる。究極的には、普遍道徳の原理のみが支配する社会ならば、世界の終わりまで存続するであろう。(48)

この部分のように語り手の独自の視点、価値観が随所に現れる。そうした叙述が多いため、次第にこの物語の語り手は<誰>で<何のため>に記述しているのかという疑問を生じさせていく。原作においてはまさにその点こそが肝要な要素であり、エピローグでそれが明かされるとき、物語内部に執拗に出てくる人間を対象化したような突き放した印象のあるニヒリズム的描写の理由が明らかになる。エピローグの最終文で「本書は人間に捧げられる。」(431)と締めくくられる。つまり、ノーベル賞クラスの分子生物学者であるミシェルの功績によって、人工生殖――セックスを必要としない生殖――が可能となり、人間は旧人類として消滅の道を歩んでいて、現在の人類は人工生殖によって生まれた新たな人類として繁殖していっているのだということが明かされるのである。

人間の観点から言えば、われわれは幸福に暮らしている。彼らには乗り越えることのできなかったエゴイズムや残酷さや怒りの支配をわれわれが脱することができたのは確かである。いずれにせよ、われわれは異なる人生を送っている。(中略)旧人類の目から見れば、われわれの世界は楽園である。われわれ自身、ときおり自分たちのことを――軽いユーモアを交えてではあるが――「神」という、旧人類たちがあれほど夢見た名前で呼んでみたりするものである。(430)

このように、人類全体と新人類の未来というSF的な展開をする叙事詩的なメタフィクションとして本作は成立している。またポストモダン文学に類するものとして本作を位置づけることも可能であろう。ソレルスサルトルなどの有名な実在した人物たちが物語で登場人物たちとかかわりを持って登場する点や、哲学や現代思想、戦後史、社会学、生物学、物理学などの様々な諸学問の概念を至る所で――説明的すぎる部分もあるし、マニアックな域までは一つ一つの概念を掘り下げてはいないが――導入している点、架空の歴史を扱っている点、語り手がこの書物そのものに言及する枠構造になっている点などがポストモダン文学の特徴と一致しているであろう。このように原作は、単に異兄弟の人生を描いているというよりは叙述トリックを用いて、ふんだんに知識が盛り込まれ、差別的な表現も厭わずに用いられた、アイロニカルな様々な要素を含んだ作品である。以上が原作の概括である。

 

レーラーによる映画版の原作からの変更点

 細部の設定についての変更点は以下の通りである。まず基本的な変更点としては舞台がフランスからドイツに移されたということである。これはドイツ映画ということで俳優がドイツ人中心であるということを考えればごく当たり前の改変である。また、ミシェルが冴えない女性経験の無い中年男性、ブリュノが筋肉質で色気ある男性に変えられている。原作ではミシェルは女性経験があり、ブリュノは髪の薄い風采の良くない中年男性である。少年期のミシェルは風采が良いがブリュノが良くない、という点は原作と共通している。そして大きな変更点は、ミシェルが再会して恋人となるアナベルが原作では癌が見つかり亡くなってしまうのに対して、映画版では病気から快復して生き続けるということである。また、ブリュノの恋人となるクリスチヤーヌは原作でも映画版でも亡くなってしまうが、原作では事故死、映画版では自殺に変更される。これらの登場人物の変更点が、原作のアイロニカルな現代批判的側面を消し、異兄弟それぞれのラブロマンスの物語へと大きく印象を変えている。映画版の最終シーンでは、ミシェル、アナベル、ブリュノ、そしてブリュノに幻覚として見えている、死んでしまったクリスチヤーヌの4人が浜辺に置かれたチェアーに並んで座っているシークエンスでエンディングを迎える。原作で用いられた旧人類を新人類が語るという叙述トリックの要素は完全に排される。ミシェルの人工生殖の功績も原作のような人類規模の変異につながることはなく、彼の重要性が強調されることはない。あくまでもミシェルとブリュノは同列に置かれ、職業は彼らの差異を示すために記号的に用いられるにとどまる。そしてエンディングでミシェルとブリュノそれぞれが愛を見つけささやかなカタルシスが与えられたところで物語は終わる。

アナベル役/フランカ・ポテンテ「これは家族の物語であり、人生の希望を描いた物語でもあるわ。成長し年をとる過程つまり人生を描いているの。」

プロデューサー/ベルント・アイヒンガ―「映画化で大変だったのは物語の核を決めることだった。物語の流れを考えたうえで兄弟を二人とも主役にすることに決めた。」

監督/オスカー・レーラー「映画全体をネガティブな印象で終わらせたくなかった。主人公の二人はひどい人生にもてあそばれてきたが、やっと自分たちの愛を見つけた。それなのにまた失うなんてね。」

インタビューで語っているように映画版は、原作の多層的なスペクタクルから、愛を失っている異兄弟が再び愛を獲得していく過程に焦点を絞って、2人の人生の物語になるように意図して作られていることがわかる。

 

愛の獲得と移動

映画の序盤、工事の関係で祖母の墓を移動するため、立ち合いの要請を受けたミシェルは故郷を訪れる。そこで偶然初恋相手のアナベルと再会する。ここでのミシェルは要請されて移動してきたので、受動的な行動といえる。一方ブリュノは、ヒッピー生活をする「変革の場」という施設へと自ら足を運ぶことでクリスチヤーヌと出会い愛を手に入れていく。依頼によって偶然出会ったミシェルに対して、ブリュノは自ら愛を求めて能動的に行動する。愛への受動性がミシェルの愛を獲得できない理由なのだとすれば、ブリュノは過剰な能動性である。それぞれに愛の獲得の機会が訪れ、彼らの行動に明らかな変化が見られるようになる。

ミシェルとアナベルは再会ののち恋愛関係になり肉体関係をもつ。ミシェルの子どもを授かりたいと願ったアナベルは子宮に癌があることが発覚する。術後容体の悪いアナベルを心配したミシェルは、更なる研究のためにアイルランドの研究所に移っていたのだが、アナベルの元へと急いで向かう。ここでの移動は象徴的である。受動性が問題であったミシェルは能動的にアナベルの元へと向かう。アナベルは結果として生き延びる。(原作ではミシェルはアナベルの元へやって来るが、アナベルは亡くなってしまう。)アナベルが病気から快復したことでミシェルとアナベルは再びともに生きることができるようになる。この出来事がきっかけでアナベルはミシェルとともにアイルランドに行くことになる。ミシェルの行動の変化が愛の獲得と結びつくのである。

クリスチヤーヌは尾骶骨の壊死が進行しており、手術によって車椅子生活を余儀なくされてしまう。「これからは一緒に暮らそう」と花束を渡すブリュノに対してクリスチヤーヌは「あなたの残りの人生、無理して身体障害者の世話をしなくていい。もう一度考えてそれでも良いのなら電話して。」と答える。自宅に戻ったブリュノとクリスチヤーヌの平行モンタージュが劇中で最大のサスペンスを生む。ここでは電話が記号としてクリスチヤーヌとブリュノの感情を表す。ブリュノは電話を掛けようとするがなかなか掛けることができない。これはこれまでの過剰な能動性とは異なり、クリスチヤーヌの事を思いやった上で葛藤している様子を表している。クリスチヤーヌの願いはブリュノに余生を自由に生きてほしいというものであると推し量ったブリュノはいままでのように能動的に自分の意志だけで行動することができない。ブリュノの葛藤が床に置かれた吸い殻の大量に溜まった灰皿のインサートで表される一方、クリスチヤーヌはマンションのベランダへと車椅子を動かしていく。クリスチヤーヌは自殺しようとしているのだ。ようやく電話を掛けることができたブリュノと身体を投げ出そうとするクリスチヤーヌのモンタージュ、そして次に電話を置いて走り出すブリュノと身を投げたクリスチヤーヌが連続で映される。ブリュノはクリスチヤーヌの命を救うことはできなかった。しかしながら、その後精神病院に入院するブリュノはクリスチヤーヌの幻覚を見ることになる。奇妙な形ではあるがブリュノはクリスチヤーヌとともに生きる喜びを手に入れ、クリスチヤーヌの願いも叶うことになるのである。そこから前述のように、カタルシスを与えてくれる浜辺の4人のシークエンスのエンディングに向かっていく。

 

映画版は原作の補填的イメージ表象に過ぎないのか

レーラーの映画版は原作のプロットに忠実であろうとし過ぎた。異兄弟の「愛」に焦点を絞って人間ドラマに再構成したが、核となるプロットにはあまり変更がほどこされていない。たしかにアナベルが死なないなどの大きな変更はあった。しかし、原作は2人の恋にとどまらない壮大なメタフィクションとして構想されたものであり、枠構造内部のプロットだけ取り出して人生ドラマに改変したレーラーの映画版は明らかに原作が持つ特異性を失ってしまった。『素粒子』の特異性とは、新人類の語り手によって壮大に描かれる人間存在と現代社会のニヒリズムと合理的確実性の極限までの追求によって人間のエゴイズムを超克したユートピアとが織りなして作られる架空の世界観である。繰り返しになるが、われわれの生きている世界を強烈にパロディとしておちょくっているメタフィクションなのである。そのような原作の要素を封印してヒューマンドラマに変換してしまった映画版に原作と同じように特異性を見出すことは到底できない。愛と人生に焦点を当てた結果、比較的平凡なメロドラマに収まってしまったとさえいえるかもしれない。原作の特異性に代わる特異性を形式に求めることはできるか。これもあまり期待できないだろう。なぜならメロドラマ的になってしまっているのは、形式的な斬新さもあまり見られないからだ。回想シーンは決まってブリュノの語りとともに導入されていくし、女子学生に発情してしまったが気持ちが通じ合わなかったブリュノはやはり泣くし、聡明そうな容貌の若き日のミシェル少年は期待通り科学の話を振られると饒舌に話し出す。意外性をもたらさずに観客の直観のイメージに頼ったカットのつなぎや話の展開は画一的な固有性の無いメロドラマ的イメージへと読者を誘ってしまう。メロドラマが必ずしも悪いわけではないが、原作の特異性を再構築しようとしたときに、このような変換ではむしろ特異性は鳴りを潜め、類型的になってしまったのではないか。

映画版では原作の持つSF的スペクタクルと激しい現代批評性は失われたというのは既に指摘した。その点では映画化によって独立した、原作を転覆させうるような作品ではないだろう。しかし、映画版は2人の人間の奇妙なラブロマンスへと変換することで全く異なる様相を強調することには成功した。焦点を変えることで全く異なるイメージの作品へと転換させた。視点の変更と言ってもよいかもしれない。原作の視点は人類という壮大な視点だが、映画は二人の人生そのものを映す視点である。これによって作品から受ける印象は原作と映画版とでは大きく異なる。焦点化したポイントが原作とは全く異なるため、単なる小説のイメージを補填するための再現表象という避けるべき事態に陥ってはいないであろう。しかしながら、この映画そのものが自立して自然に原作から離れていき人々の感覚を切り裂くような揚力を持つことは非常に困難であると言わざるを得ない。最後に原作から次の文を引用して本論を終えようと思う。

責めさいなまれ、矛盾を抱え、個人主義的でいさかいに明け暮れた種族、そのエゴイズムに限りはなく、ときにはとんでもない暴力を爆発させた彼らは、しかしながら善と愛を信じることを決してやめようとはしなかったのである。(431)

 

 

参考文献

http://www.webchikuma.jp/articles/-/868(2018/7/21アクセス)

ミシェル・ウェルベック野崎歓訳、『素粒子』、筑摩書房、2006年

オスカー・レーラー、『素粒子』、ジェネオン エンターテイメント、2007年

涙の出る穴を見つけた。

 この場所の全体が雲の影に入っていた。
うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。客はもうとうに散ってしまった。大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。天空が最初に全世界を支配した。死に顔の最も美しい死に方はなんであろうか。女は赤ん坊の腹を押しそのすぐ下の性器を口に含んだ。

朝の十時だった。
僕は多くの非難をわが身に受けることだろう。ひと思いに出かけてしまって、ほんとによかったと思っている。兵隊さんたちが大陸や南方から復員してかえってくるのを、見た人は多いと思います。それはおよそ善き時代でもあれば、およそ悪しき時代でもあった。かれは年をとっていた。エレベーターはきわめて緩慢な速度で上昇をつづけていた。炉辺にすわり、しかも個人的に親しい友人にむかって、自分のこと、一身上の問題についてくわしすぎる話をするのはわたしの性分にあわないことであるが、読者諸氏にむかって話しかけるとき、自分の過去の経歴を伝えたい衝動が今までに二度もわたしのこころをとらえた。世の中でいちばんかなしい景色は雨に濡れた東京タワーだ。毎日お昼どきに、僕は市庁舎公園のベンチにその青年の姿を見かけた。
恋をしたのだ。
長いあいだ、私は夜早く床に就くのだった。見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。最初はそんなこと、誰も信じていなかった。押し寄せる雑兵を蹴散らす、戦国武将の気分だった。ぼくは病んだ人間だ……ぼくは意地の悪い人間だ。朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
と幽かな叫び声をお挙げになった。
ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重苦しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。

光で、目が覚めた。

きんぎょ

夜勤のバイトに備えて家のソファで微睡んでいると、ばあちゃんが窓をコツンコツンと叩いた。

「これ、きんぎょ!きんぎょ買ってきたから…えさも買ってきたよ!」

そう言って金魚が6匹中で泳いでいるビニール袋をテーブルに置いてまたどっかに行っちゃった。

ばあちゃん、今年で80歳だ。15年くらい前に一度癌で入院したけれどお見舞いに行ってもニコニコして編み物してた。今だってとっても元気だ。車の免許は去年返納しちゃったけれど、昨日だってうちで飼ってるビーグルたちと庭で追いかけっこしてたし。僕は「転ばないでおくれよ」と気が気でなくなるわけだけど。ばあちゃんはビーグルたちにこっそりえさをあげる。「おやつだよ」と言ってたっぷりとドッグフードを与えちゃう。最近ビーグルの片方が妙に太ってきて寸胴だなあと思っていたら、ばあちゃんが手のひらにアイムスをのせてビーグルたちは嬉しそうに尻尾振ってた。

ばあちゃん、最近ボケてきちゃったのかな、いや、気のせいかな。あんな風に歳を重ねてキュートなお年寄りになれるんなら幸せだなあ。僕もそうなりたい。

 

金魚、ぐるぐると水槽の中を廻る。メダカを飼ってる水槽が家には1つあるから新しく水槽を買う必要はないけれど、せっかくだし金魚鉢買おうかな。ぐるぐると水の中をまわっていられるように。

らんちうっていう文芸誌を今度友だちと出します。いい名前だよね、らんちう。

ピカデリー

早稲田で撮影のお手伝いをしていたら終電を逃してしまって、どうやって時間を潰そうかと思ったら財布には600円しか入ってない。これじゃあカラオケにも満喫にも行けない。戸山公園に雑魚寝するにも、日中は春の顔を見せておいて底冷えする2月下旬の夜は油断してコートも着てない自分にはなかなか厳しいな。すると先輩がピカデリーで「シティーハンター」と「女王陛下のお気に入り」を一緒に見よう、お金は貸すからと言ってくれたので午前1時過ぎの上映に間に合うように新宿まで歩く。ピカデリーの正面の通りは土曜深夜の都会特有の胡散臭い猥雑さで満ち溢れている。深酒したサラリーマンが、道端のショッキングピンクの大量のゲロをしゃがみこんでスマホで何度も写真を撮っている。停車している車の窓をコンコンと叩くあんちゃん、新宿ピカデリーの前でパンツ丸見えで1人で座り込んでいる女の人とワンチャンを狙ってニタニタと話しかける薄緑の髪の毛をした男。シティーハンターが終映したのがぴったりAM3:00で、女王陛下のお気に入りが始まるのもAM3:00。幕間の時間が10分弱だから急いでエスカレーターを降りてチケットを買い再びスクリーンに向かう。「エマ・ストーンの乳首が見れるのが見どころ」だなんて言った奴誰だよ、めっちゃ面白いじゃないかと思いながら午前5時過ぎのピカデリーを後にすると、座り込んでいた女の人も薄緑の男もいなくなっていて、真っ赤な顔で大きな声ではしゃぐ集団と吐瀉物とゴミの塊が偏在している。辺りはまだ暗い。ショッキングピンクのゲロはまだそこにあった。近くには清掃員の人が仕事に取り掛かろうとトラックから荷物を取り出していたから、あのゲロもじきに片付けられるんだろう。付き合ってくれた先輩と分かれた後、歌舞伎町の入り口の向かいの吉野家に入った。一階は満席で二階のカウンター席に通された。数席離れたテーブルの方から「だから何度も言ってるじゃないですか!」と語気の荒めな女性の声が聞こえてくる。20〜30代の3人の女の人が座っている席からその声は聞こえてくる。1番後輩の子が先輩に向かって少々不満を暴露してる。話の内容はわからない。声のトーンでは先輩2人のうち1人が責められていて、もう1人は仲裁している。後輩の人はなかなか収まらない。すると、隣のテーブルの学生っぽい男の人が

「あの、喧嘩するのもいいですけど、店の外でやってくれませんか?」

と注意すると、先輩が

「そうだよね、ごめんなさいね」

と気さくに謝り、二階は静かになった。

3人はしばらくして席を立ち、もう一度注意した若者たちに軽く謝って店を出て行った。すると若者たちは「1番ブスのやつがキレてて面白かったな!」と仲間内で騒ぎ出した。

これから恵比寿映像祭に行こうと思ったが、510円の牛丼セットを食べてしまったから、財布の残りは100円ちょっとしかない。これじゃあ電車に乗ることもできない。なんなら家に帰ることもできない。朝の7時にはコンビニのATMが使えるはずだからそれまで1時間くらい時間を潰さなきゃ。周期的な睡魔がやってきたので、店を出た。ここから4kmくらいで渋谷駅に着くからちょうどいい。渋谷まで歩こうと思って西を目指す。西口の喫煙所で一服しようと思ったら、さっきの女性3人と再び遭遇。先輩2人を見る限り、何かしらの夜のお仕事終わりなんだろうなと思った。先輩1人は茶髪でアイシャドウが濃くて、強い香りの香水をつけている。3人ともふくよかで、後輩らしき子は黒髪でほとんどすっぴんのように見える。「私だって頑張ってるんですよ!」と大きな声を出す。先輩が「わかった。けど、今日はやめよう。お酒入ってて冷静に話し合いできないからさ。いい?」「私は冷静ですよ!そうやっていつも話をそらす」「ほら、冷静になれてないじゃない、大きな声出さないで」盗み見ると、先輩が後輩の煙草に火を点けている。その後も後輩は先輩2人に向かって声のトーンを抑えたまま何かを話し続けていたが、先輩たちは無視して2人で小声で談笑していて取り合わなかった。

だんだんと空の青みが増す。喫煙所まで来て吸い殻をポイ捨てしていく男性がいる。こんな街を冴羽獠は日々守り続けているんだな、一度くらい滅びてもいいんじゃないの、なんて思った僕もだいぶ疲れている。歩き始めて気づかぬ間に代々木駅を通り過ぎて、辺りはかなり明るくなっていた。ゴミ拾いをしているお爺さんとすれ違った時に、「ご苦労様です、ありがとうございます」と言おうと思ったが、「てめえらがポイ捨てしなきゃいい話なんだよ」とか言われて胸ぐら掴まれたら2、3日凹んで寝込むことになっちまうなと思って声をかけずじまいだった。そうこうする間に、原宿に着いたので代々木公園で一休み。朝から犬の話をしながら散歩するおじいさん、おばあさん4人組の声のトーンを聞いていたら、この人たちも昔は新宿で深夜に真っ赤な顔してどんちゃん騒ぎしてたのかしらと不思議な気がした。渋谷に着く。7時過ぎ。ファミマでお金を下ろす。お金が出てこない。取り扱い時間外。は? 慌ててもう一度カードを入れて暗証番号を入力する。取り扱い時間外。電池残量6%のスマホで日曜日のATM取り扱い時間を調べると午前8時から。意気消沈しながらマクドナルドに入ってホットコーヒーSサイズを注文する。これでもう残高は数十円。意外と中は混雑している。仮眠とるのは難しいかな。読みかけのジョン・アーヴィングの「ガープの世界」の下巻を読む。なんだろう、等身大の自分に深く刺さってくる物にときどき出会う。自分にとっては中学生の頃に初めて読んだ「ノルウェイの森」、高校生の頃に見たRADWIMPSシュプレヒコール」のミュージックビデオ、大学に入ってすぐの頃に見たアッバス・キアロスタミの「ライク・サムワン・イン・ラブ」。これらは、自分がぼんやりと考えていたことを丸ごと洗練して尚且つ平易な形で言語・映像化されているように感じて愛おしくなると同時に細部に耳を傾けた。刺さるのは、図星であるからだし、先を越された嫉妬心でもあるし、自分には理解できていないものへの洞察眼への感銘でもある。自分の関心や精神状態と作品との出会いの時期がぴったりマッチしていると時々そういったことが起こる。それを自分でコントロールすることはできないんだろう。

8時を過ぎてお金を下ろしたが、恵比寿映像祭は10時から開場だ。疲れも結構ずっしりと来る。向かいの通りにエッチなDVDの個室鑑賞のお店が目に入った。ここで10時まで時間潰すことにしよう。6枚好きなDVDを選べるから、エッチなDVDを5枚決めて、最後の1枚はトラン・アン・ユンの「ノルウェイの森」にした。多少割愛して、映画版の「ノルウェイの森」は見るに耐えない。原作をリスペクトし過ぎて描写や台詞を映像化することに固執しているから、ワタナベ君の笑撃の台詞「勃起しているかどうかということならしてるよ、もちろん」という台詞を松山ケンイチに喋らせてしまうことになるし、突撃隊との螢のエピソードを尺の都合で一切無くしてしまい、突撃隊を演じる柄本時生はただの変人としてしか画面に登場しない。小説の濃淡をメリハリつけてソウルだけ引き継いで脚本を書くっていうことは随分と難しいらしい。ミシェル・ウェルベック素粒子」のオスカー・レーラーの映画版なんてもっと酷かった。小説原作ってものは難しいんだ。馬鹿にして改編しまくった方がキッチュでキュートな作品が出来そうな気がする。

恵比寿映像祭での目当ては三宅唱監督の「ワールドツアー」という映像。3画面同時に、スマホで撮られた日々の日常を3つの画面それぞれ別の映像で流す。目で追うのは大変で、おまけに上映中横になれるもんだから、気づかぬ間に瞼を閉じて眠り込んでしまった。失望からか、併設されていた「無言日記」は集中して見ることができた。これが刺さった。深く刺さった。悔しさと言うのだろうか。日常のスナップショットは面白い。この「無言日記」は、例えば電車の座席で横になっているサラリーマンとその近くをウロウロする女性、というような誰もが出くわしそうな何気ない場面が次々と流れる。すべてスマホで撮っている。これは映画なのか?映画ってなんだ?わからないけれど、とにかく見ていて面白い。さっきの3人組女性の様子を撮っておけばよかった。何か引っかかる日常のスナップショットも、とにかく記録しないと忘れ去ってしまう。面白かったことも忘れてしまう。一つ一つに深遠な価値や深刻さなんて無くても、積み重なると不思議なもんだ。人の記憶の中にいるみたいな、あるいは自分の記憶を見ているような妙ちきりんな気分になる。アイデアが浮かんでいてウンウンと難癖つけながら考えるのと、それを実行し続けることには天と地ほどの差があるのだな、月並みなことを考えつつ悔しい気分になった。月並みな教訓は普段は野暮だが、役に立つ。いつか実感するんだもの。すごい。とにかく日常を記録してみよう。まずはそれからだな。と気分良くなったところで眠くなって、目的の三宅唱の「やくたたず」は見ないで帰って泥のように寝た。以上。ピカデリーの日記。これも記録だ。

 

永戸鉄也YouTube

 

優しさで流れる川~『寝ても覚めても』~

 濱口竜介監督の商業映画デビュー作となる『寝ても覚めても』をテアトル新宿での上映終了前日に観ることができた。前々から評判が良いことは知っていたんだけれど、このところ映画館に足を運ぶことへの面倒臭さが上回ってしまってなかなか行けなかった。そんなことはともかく、観終わってから、これは何かしら言葉にして残しとかないといけないなと思った。こんなにも人間について誠実で優しい映画は他にはないと思ったからだ。観終わってからというもの、頭がぼっとしてしまって呆然としてぼんやりと一日中『寝ても覚めても』について考えてしまった。

 なんというか、僕たちは映画に対して倫理観を要求する。自分たちの生活における生々しい残酷な気持ちというものを映画に対しては要求しない。それは描写や主題云々ということではなくて、僕たちの持つ残酷さについて見つめさせ、あるいは慰めさせ、最終的には自分を肯定してくれる理解者として多かれ少なかれ作品をいちづけようとするという意味においてだ。だから作品に対する評価というのもそこで分かれてくる。無論、本作も例外ではないと思う。ただ、本作は本当に風通しが良いのだ。自己投影としての普遍的な問題や社会問題について問題提起を促したり、見えるものについて徹底的にこだわり貫いてフレームの美的な視覚的強度で酔いしれさせたりすることは良いことだ。だけどそれは表面的な偽善だとも思う。全然優しくない。見えるものの美しさで作品を評価するのはテクニカルで分かりやすいし、なによりも気持ちが良い。でも、それより先へは行かれない。何よりもそれでは作品内での道徳的な要素というものが置いてけぼりになってしまう。登場人物の勇敢な行動、はっとする行動、没入できたか、泣けたか、主人公の心情に寄り添えたか、それで評価すると、これもまた単調だ。理解できない人間は切り捨てられてしまうのか。『寝ても覚めても』は偽善から離れて優しさで包もうとする。漠然とした表現だがそのように思う。ショットの凄さで論じる一辺倒になるのはそろそろよしませんか?あるいは、あなたがかわいそうだと同情することで傷つくことになる存在がいることについて気づいてくれませんか?とでも言うようだ。だからといって少しも押しつけがましくない。

 ショットはうっとりするほど美しい。チェーホフの戯曲の一節を唱えながら歩みだす串橋(瀬戸康史)とそれを見つめる朝子(唐田えりか)。常磐道を走って北海道へと向かう朝子を乗せた麦(東出昌大)の運転する車のヘッドライトの光が東京へと帰っていく車のヘッドライトの光と交差して、そして遠くへと消えていく。高速バスの窓の外を眺める朝子の横顔が夜の外灯の光で映っては消え、また映っては消える。東北の復興市でテーブルを囲んでおしゃべりにふける朝子と亮平(東出昌大)と地元の人々をカットを割らずに次々映し出すのはジョン・カサヴェテスの『こわれゆく女』を彷彿とさせるし、河川敷を走って逃げていく亮平を追いかけていく朝子を遠く離れた高い位置から定点で撮り、一面緑の草が生い茂る河川敷の中で見る見るうちに白い点でしかなくなってしまう亮平と朝子の長回しは、やはりアッバス・キアロスタミの『オリーブの林をぬけて』のような清らかさがある。ただ、何度も言うようにショットの美しさを語るだけでは到底作品のすばらしさを表現できない、皮相的になってしまうのだ。

 朝子(唐田えりか)の行動は理解できないものなのか。たしかに嫌われて軽蔑されてとことん信用されることはないのかもしれない。顔が同一の亮平と麦(ともに東出昌大)。亮平とともに生きていこうと決めた大阪への引っ越し前夜、突如現れた麦から差し出された手を躊躇うことなく朝子の方から手に取りその場を去る。そして結局はもうそれ以上先へは行くことができない防波堤の前で麦の手から離れて海を見つめて亮平の元へと戻る。「お前は馬鹿だな」と東北のおじさん(仲本工事)は言いたいことを代弁する。「愛に逆らえない」、というより、自分の誠意と他者との共存は両立しえないものなのではないか。朝子は麦に対して誠実であった。誠実ゆえに麦の手を握るしかなかった。あなたが今、目の前にいる。一緒に行こうと言っている。それは嬉しいことで、私はあなたのことが好きだ。約束を守ってくれてありがとう。あなたは私にとって心から大切な愛しい人だ。そう感じるとき、私とあなたの世界でどうして自分の気持ちに蓋をするのだ。だって私はあなたのことが好きなのだ。それを伝えることは誠意のこもったことではないか。頭がおかしいんじゃねえのか。私の目の前にいるこの人はどうなるんだ。もしあなたを選んでしまったらこの人が深く傷つくことなんて考えなくたってわかるし、いや、というかそもそもあなたを選ぶという選択肢がここで浮かぶなんてお前は瞬間的な感情に身を任せる軽率で悪い人間だ。この人に対して愛があるのなら、誠意があるのならば、当然あなたを選ぶことなんてできない。違う。私はこの人が大好きだ。ずっと一緒にいたい。だけれど、だけれど、鼻っから、誠意なんてものは複数の他者に対して同時に両立することなんてできないんだよ。無理だよ。あっちみてこっちみていっぺんにキョロキョロして丸め込もうとすることは誠意じゃない、偽善だよ。誠意をもって向き合うことは目の前の一点においてしかできない。きっとそういうことなのだ。

 麦から離れ大阪までやってきた朝子のことを最後まで亮平は決して見ようとしない。目を合わせることはない。朝子は亮平の顔を見つめ続ける。2人が出会ったとき、朝子は亮平を決して見ようとせず、亮平は朝子を見続けた。他者を見ることは誠意を持つことだ。その誠意が必ずしも優しさ、相手を傷つけることがないような配慮ではないかもしれない。3.11以後の世界で、高い防波堤の前で海を見ることもできず更に奥へと走っていった麦。麦が去った海を見つめる朝子。大阪の新居の二階のベランダから、傍の淀川を見つめる朝子。亮平も淀川を見つめる。誠意は物事を逆再生できないところまでぶち壊してもとには戻らないかもしれないし、物事をよりややこしくしてしまうかもしれない。それでも、この映画はそんな奇形とも思える誠意すら静かに川の流れる音とともに受け止める。いずれ死にゆく不治の病ALSに罹ってしまった岡崎(渡辺大知)のありようも、それを支える母(田中美佐子)も、串橋と生きていく夢破れたマヤ(山下リオ)も、整形して国際結婚した春代(伊藤沙莉)も皆、流れていく人生を予感させ受け止める。優しさ、風通しの良さというのは、それぞれの人生を肯定するのでも咎めるのでもなく、ただ川の流れを見つめて、人生がこれからも続いていく、彼らの簡単ではないこの先の時間の流れが明転してもなお思いめぐらされ、そこに困難は予感されても心配することがなく終わるからである。それを僕は優しさという言葉で拙いけれど表現しようとした。

メタモンのように生じて時間の経過とともに形こそ穏健に変わってきたがメタモンは我を持たない。よって形状記憶合金のようにふやけた吐瀉物がうろうろとのたうちまわる。そんな地下室を持ってしまったと自称する自意識を拗らせつつある住人は形式的な節目にこのようなうってつけの営みに首を突っ込むことにしてみたのである。俺は俺に対して自己充足的にやっているだけだと虚勢を張ったところでそんな言葉には何の意味もない。本当に何の意味もないのだ。見て欲しいからひっそりとした場所かのように粉飾された心地よい椅子の上でマジックミラーの部屋で1人叫ぶのだ。四方八方せせら笑われていることを微かに感じながらもおしゃべりへの希求をやめられぬ、そんな男の苦し紛れのカタルシスを得ようとする焦燥を残す。